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2023年から通信大学で福祉を学ぶ為に入学予定です!
どうぞよろしくお願い致します。

双極性障害の母と過ごした20代の私

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私の母親は双極性障害と言う精神障害です

前回、母の異変から入院するまでをお話させて頂きました。

まだ読んでない方は是非こちらをご覧ください。

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目次

母の入院

母が入院して、私は子供と一緒に旦那の待つアパートへ帰ることができました。

母は入院してからすぐに落ち着きを取り戻し、多少テンション高めではありましたがお見舞いに行けば会話もできるようになっていました。

母からの手紙

母は当時ケータイを持ち込むことができなかったのか、父に取り上げられていたのかはわかりませんでしたが、公衆電話から電話をしてきました。

10円で話せるのは1分ほど。しかし話したい事が次々湧いてくる母はうまく話したいことがまとまらず、切れてしまうことは日常茶飯事。

そして出なければ何度でもかけてくるので

公衆電話の不在着信履歴で埋まってしまう

なんてこともありました。

電話に出ない私への怒りを、私の旦那へ宛てた手紙がこちら

母が私の旦那宛に送った手紙

入院生活では、作業をすることもありましたが、元々不器用で細かいことが苦手な母にとっては苦痛だったようで、

あれ嫌いなんだよねー

なんて愚痴をこぼしていました。

病室には10代の若い女の子もいました。友達ができた!とよくその子の話をしてくれたのを覚えています。

当時母が入院していた病院は、とても暗く閉鎖的な感じがありました。

エレベーターで病室まで行く途中、病棟の前に格子のようなもので隔離されているような階があり、怖かったのを覚えています。

精神障害についてなにも知らなかった私にとっては異世界のようでした。

病室に行くまでの間では、毎回

おんぶしてあげようか?

と、ずっとついてくる男性がおり、まだ3歳だった我が子にはとても怖かったようで、下の子のベビーカーに潜り込み隠れて病室まで行っていました。

現在はとても綺麗に改装され、当時のような閉塞感や暗さは全くなく、総合病院と変わらない雰囲気になっています。

入院生活3か月ほどで母は自宅へ帰れることになりました。

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退院してからの母の様子

退院してからは本当に今までと変わらない母になっていました。

父も入院中の優しかった頃のことを忘れたのか?相変わらずの亭主関白っぷり。

でも、これが我が家の日常です。当たり前の生活に戻れたことが本当に嬉しかったです。

母からの手紙

自分で運転をして、通院もしていました。

あれはなんだったんだろう。でも治ってよかったね。

なんて母が病気になったことも忘れるくらいの生活をしていました。

時々落ち込み元気のない時もありましたが、元々落ち込みやすかった母。

通院をし、薬をかえてもらったりしながらコントロールしていたんだと思います

母との喧嘩

私も仕事を始め、あまり実家へ顔を出さなくなっていきました。

そんなある日、私の仕事の休みに母がアパートにやってきました。

少しハイかな?(テンションが高い)と思いましたがたわいもない話をしていました。

母が突然、

あんたの顔見てるとお父さんみたいでムカつくからあっち行って

確かに私は性格も顔も父に似ています。

ですが突然こんなことを言われ腹が立った私は

てゆーかここ私の家だからあんたが出てって

二度と顔出さないで

こんな正面から母親に反抗したのは産まれて初めてでした。

思春期の時、腹が立つことがあっても声をあげたりすることはなく、無視したり会うのを避けていた私が初めて声を荒げて言いました。

あっそ、二度と来ないわ

母が出ていきました。

あの時のことは今でもはっきり覚えています。

正直、ずっと母親が苦手だった私はすごくすっきりしてやっと実家から解放された!

もう親の顔色伺ったり、振り回されず私らしく生きれるんだ!

なんて思い、母に言ったことを後悔は全くしませんでした。

旦那にはいいの?と聞かれましたが、私は本当に解放されてすがすがしい気持ちでいっぱいでした

その夜、父から電話がありました。

お前はよくそんなこと母親に向かって言えたな

お母さんが病気だってことわかってるのか

お父さんみたいでムカつくと言われ、キレた私。

私にムカつくことがあったんだとしても、父は関係ないじゃん!と言う気持ちもあり怒った私

えっ?私が悪いの?お父さんのことかばったのに?

お前が全部悪い。お母さんは泣いて落ち込んでる。どうしてくれるんだ。

病気とか関係ない!

私は娘として、外ではいい人と言われているけど私には全然いい人なんて思えなくて、母親のそうゆうところが昔から嫌だったんだから!病気になる前から母親はそうゆう人だから。

言いたかったけど言えなかった。

ごめん。また今度謝るわ

そういって電話を切り、私と実家との関係は数時間で元の関係に戻ることになりました。

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祖母の死

私にとって本当にかけがえのない存在だった祖母。母にとってもそれは同じでした。

母が躁状態の時、

あんたは私の子じゃなくておばあちゃんの子だね

なんて皮肉を言われるほど慕っていた祖母。

祖母の病気がわかってから亡くなるまでは本当にあっとゆーまでした。

幼少の頃から私の心の支えだった祖母の死は泣くことも出来ませんでした。

祖母が亡くなる数日前、

お母さんとお父さんのことごめんね。よろしくね。

私じゃ無理だからおばあちゃんも一緒にいてよ!

なんて言いながら最後まで私の見方でいてくれた祖母が亡くなりました。

母は落ち着いていましたが、葬儀の帰り道、みんなで会話をしていた時、ふと

帰ったらおばあちゃんに教えてあげよ

と、いつも家で待ってる祖母に帰ったら話してあげよう、と言っていたように本当に当たり前に母が口にしました。

母自身も祖母が亡くなったことをまだ受け入れられず、自分を保つのに必死だったんだと思います。

祖母の死は、私にとって本当の試練の始まりでした。

母の異変が再来

祖母の死から数年間は母も落ち着いており、孫と遊んだり友達と遊んだりとなにげない生活を楽しんでいました。

初めての入院から7年が経った頃の年末、母の様子がおかしい

暖かい時はわりと調子もよく、寒くなると落ち込むことも多かったここ数年の母。

やけにテンションが高い。

年末、兄弟で集まっている時に父から出てくるなと言われ部屋に押し込まれていた母。

たまにリビングを覗いてはなにか言いたい様子。

父は「部屋に行け!」とイライラした様子。

なんとかして私と話そうと試みた母は、

生理が来たからナプキンを〇〇(私)からもらってきて

と父に頼みました。

還暦も近い母。そんな母の嘘もわからず昭和の頑固親父だった父が言いにくそうに私に伝えてくれました。

それ嘘だから!とりあえず行くわ

父に伝え母の部屋へ向かいました。

やっと話せるーー!!と、とにかく話しまくる母。

これやばいな。

父に話しますが、父は入院は避けたい様子。

実家には祖父もおり、母が入院してしまうと自分がすべてやらないといけなくなってしまう父。

入院するとまた3か月は帰ってこない。

父自身も祖母が亡くなり今まで目を背けてきたこともすべてやらないといけないと不安もあったんだと思います。

母のテンションは加速していき、着信の嵐。

父の目を盗んでは我が家へ早朝からやってきたり。

私は母から逃げるよう、仕事が休みの日には友達と遊ぶ約束をして家を留守にしたり。

数日後、私は仕事へ行き、我が子と遊ぶ母。

そんな母が突然倒れました。

びっくりして慌てて父を呼ぶ我が子。

当時まだ小学校低学年だった我が子。必死だったと思います。

私は仕事から帰り、我が子を「偉かったね」と抱きしめてあげることしかできませんでした

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母の2度目の入院

母はそのまま入院することになりました。

父は祖父のことから逃げるように毎日母の病院へ行っていました。

私はこの2度目の入院でお見舞いへ行ったのは1度だけでした。

仕事もしており、父が毎日病院へ通っていたし、私がいったところでできることはありません。

入院すれば優しくなる父。

2人に振り回されるのはもう嫌だと私は逃げていたんだと思います。

祖父と私

家で1人待っている祖父のお世話をすることに徹していました。

耳の聞こえない祖父。口数も少なくほとんど話すこともありません。

私は、手紙を書いて

ご飯だよー!

お風呂入ってね

おやつだよ!

母がいないことに気づき心配している祖父に

お母さんは大丈夫だよ!しばらくは私がご飯やるから心配しないでね

と手紙でコミュニケーションをとっていました。

木や植物が好きな祖父。フラフラと出かけては道端の花を取ってきたり、草をとったり。

ご飯の時間になっても帰ってこない祖父をよく探しに近所へ行きました。

耳が聞こえないことをいいことに?!私がいることに気づいても気づかないふりをして草を取り続ける祖父。

夢中になってる祖父を探して、祖父の気が済むまで待つ。

鬼ごっこをしているようなそんな時間もわりと楽しく好きでした

祖母が亡くなった時、

俺がいなくなればよかったとポツリと言った祖父。

父からは煙たがられ、耳が聞こえずずっと家に引きこもっていた祖父。

祖母が生きている時はほとんど関わることもなかった私。

そんな私と祖父が母の入院によって、いまさらながら孫として関わることができたのは本当によかったと思いました。

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母の2度の入院までを振り返って

母が2度目の入院をするまでのことは、正直断片的にしか覚えていません。

私も3人の子供の子育てをしながら仕事をし、母と関わる時間も自然と少なくなり毎日必死に暮らしていました。

20代は子育てと母のことであっとゆーまに過ぎてしまったように思います。

大好きだった祖母の死があったことで、成長できたこともあったと思います。

甘えることができず、大人にならなきゃと無理をしていたと思います。

母からの手紙

今になって振り返ってみると、やっぱり20代の体力は半端じゃない!

いろんなことがありながらもこんな私が乗り越えてこれたのは、旦那や子供たち、話を聞いてくれる友達はもちろんですが、

20代だったこと これは本当に幸運でした。

学歴もなく、自分に自信のない中途半端な私。

ずっと生きづらさを抱えていましたが、30代を迎えラクに生きれるようになりました

そんな私が、ラクになれるようになったのは20代のこのたくさんの経験があったからこそだと思っています

お金があるとか生活が豊かになったとか、そんなことは全くなく、笑

未だに低収入夫婦で日々必死ですが、

毎日楽しく、ストレスなく、家族仲良く生きています!

家族のことで悩んでいたり生きづらさを抱えている人に少しでも勇気を与えられるようにこれからも書いていこうと思っています。

ここまで読んで頂き本当にありがとうございます。

どうぞよろしくお願いいたします。

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