私の母は双極性障害と言う精神疾患があります。
そして父は、典型的な昭和の男。
母はもちろん、私たち家族も常に父の支配下にありました。
父の言うことは絶対!逆らうことは許されない生活。
長年そんな父と一緒に過ごしてきた母が双極性障害になり、父も歳をとってきて丸くなったとはいえ未だに頑固で威圧的、人の意見にはまず否定から入り反抗させないのは変わりません。
結婚して家を出た私は17年経った今でも、父を前にすると恐怖感があり、強いことは言えません。
そんな父と母は現在2人暮らし。
母は病気もあり、完全に父の支配下におかれ自由はありません。
施設に入った祖父に会えない
父とは常に折り合いの悪かった祖父。
耳が聞こえず人とほとんど話すこともなかった祖父。
私にとっては産まれた時から一緒に暮らしてきた祖父が、父にぞんざいな扱いを受けているのを見るのはとても辛く悲しかったけれど、誰も父に言うことはできませんでした。
母にとっては実の親である祖父。
しかし完全に父の支配下にあった母は、父に怒られることをなにより恐れ、父の機嫌を損ねるようなことをすると祖父や私たち子供にも怒るようになりました。
子供ながらに私は、お母さんはなんで助けてくれないの?と思うことが増え、父に対しても母に対しても不信感を抱くようになりました。
しかし傍からみると、父を立てる優しい母。と映るようで、お母さんはいい人、優しい人と言われていました。
母の病気と祖父の認知症が出てきたことにより、父が自分のキャパを超え祖父を施設に入れることになりました。
入ってすぐの頃、
おじいちゃんのところに行ってもいい?
なにも思わず聞いた私に父はものすごい剣幕で怒りました。
お前やお母さんが会いに行ってじいさんが帰りたいと暴れて施設から追い出されたらどうしてくれるんだ!!なにを考えてるんだ!!余計なこと考えるな!!
そんなに怒らなくても、と言う気持ちと、確かにただでさえ慣れないところでの生活で施設の人に迷惑をかけるのは申し訳ないし。と会いに行くのは諦めることにしました。
父はオムツを持って行ったりとちょくちょく施設へ行くことがあったので、
おじいちゃん元気してる?
祖父の様子を聞く手段は父しかありません。耳も聞こえず人と関わることも避けていた祖父がどうやって生活しているのか気になり聞いてみました。
知らんわ
施設へ行っても祖父に会うこともなく、オムツを置いて帰ってきているようでした。
どこの施設にいるのかもわからず会いに行くことも許されず、そこへコロナの感染拡大で施設の面会がどこも出来なくなっているが話題となりました。
みんな会えないようになっているならおじいちゃんも自分だけ誰も会いに来てくれないと思わなくて済むかもしれない。と少し安心しました。
コロナ過も数年が経ち、忘れてるかなとおじいちゃんのことをまた父に聞いてみました。
答えは同じ。
私がおじいちゃんのことを考えるのは余計な事。心配されるのは迷惑。
俺は施設の高いお金を払う為にこんなに働き、お母さんの面倒も見ている。
父は確かに一生懸命働きます。ですがすべて1人でやっているわけでもなければ周りに支えられていることもたくさんあるにもかかわらず、自分1人の力でやっていると思い込み、祖父や母のことは自分の支配下に置き、誰かに口を出させることに嫌悪感を感じていました。
どんどん孤立する父。本来はとても弱く自信がないがゆえに威張って支配下に置くことで自分を保っている父。
そんな父の味方は誰もおらず、私だけでも味方になってあげないといけないのかもしれないと思うようになりました。
祖父に会いに行きたい気持ちはありましたが、父のことを考えると口に出すことさえ出来なくなっていました。
母は祖父に会いたいけど会えない?!
私はもちろん、母も祖父に会うことは許されませんでした。
ましてや完全に支配下に置かれ自由のない母は父に祖父のことを聞くことさえありませんでした。
おじいちゃんに会いたい?
でもお父さんが…
私のように言い出すことさえ出来ない母。
祖父も90歳目前となり、生きているうちに会いたい気持ちが強くなりました。
しかし父を説得することは難しく、父を説得しようと思っている間に祖父は亡くなってしまう可能性のが高い。
コロナも5類となり日常が少しずつ戻り始めました。
1度だけ父がオムツを持って祖父の施設へ私も一緒に車で行ったことがあり、車から降りることはできませんでしたが、なんとなくの場所と建物を見たことがありました。
その時の記憶をたどり施設を探し、電話をすることに決めました!
施設の人に事情を話し、私が会うのはやっぱりダメと言われたら納得が出来る。
でもダメと言われたらもう2度と生きている間に会うことは出来ない。
どうしようかと何日も悩みましたが意を決して電話をかけました。
その結果、
私が会いに行っても大丈夫。との許可を貰えました!!!
もう会えないと思っていたおじいちゃん。
ずっと父のせいにしていましたが、自分にできることがないか。ほかに方法がないか。を考え行動してみた結果、会うことが出来るようになりました。
もしこれで施設に断られていたとしても、後悔はなかったと思います。
いつまでも父のせいにしていた自分が情けなくなりました。
母に伝えて一緒に会いに行こうかと思いましたが、認知症も進んでおり今の祖父の姿に母がショックを受けるかもしれない。と思い、まずは私1人で会いに行き、それを母に伝えて会うかどうかは母に決めてもらおうと思いさっそく会いに行きました。
5年ぶりに再会した祖父
施設に入ってから父の許可が下りなかったこと、コロナ過だったこと、気づけば5年ほど経っていました。
私のことわかるかな。
そもそも体調が悪ければ会えないかもしれないし。
どんな風になってるのかな。
いろんなことを考えながら祖父のいる施設へ向かいました。
まだコロナのこともあるので玄関で少しだけとのことで、玄関に祖父を連れてきてくれました。
外仕事が好きで夏場でも熱中症知らずの真っ黒でムキムキだった祖父。
手をひいてもらい連れてこられた祖父は、
色は白くなり、全体的に小さくなってどこにでもいるおじいちゃんとなっていた祖父。
目が見えにくくなっているようで、ペンで書いた文字も読めないといい私が来たこともわからない様子。
手をにぎり、聞こえないとわかっていてもたくさん話しかけました。
時々、手を握り返してくれたり、私の手をさすったりしてくれました。
家にいる時はさみしそうな顔をしていることが多かった祖父ですが、目も見えず私が誰かわからなくても笑顔で
「何歳になった?わしは90だから早くあの世へ行きたい」
「あんたも90か?なかなかあの世へ行けないね」
などとたくさん話してきてくれました。
剛毛でツンツンしていた髪もやわらかくふわふわで真っ白になっており、
頭をなでて
「かっこよくしてもらったね」
と言うと、もっとなでてほしそうに自分から私に頭を差し出してきてくれました。
私のことわかるかな。なんて不安はすっかり消え、会えてよかった!!という気持ちがとても大きかったです。
20分くらいの面会で、会話は出来ないし、私のことを認識も出来ていなかったけど、
心から会えてよかったと思いました。
会うことを許可してくれた施設の方には本当に感謝だし、毎日祖父のお世話をしてくれる職員さん、施設のお金を払っている父にも、父には直接言えないけど本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
父の心配している、“祖父が家に帰りたい”と言い出したら困るという心配はなさそうです。
もう私のこともわからなければきっと父のこともわからない。
笑顔で早くあの世へ行きたいと言う祖父を見て、祖父はあのギスギスした家よりもあの世へ行くことを楽しみにしていました。
また来るね。と伝え帰りました。
帰りの道中、なぜか涙がとまらなくなり、あんなに行く前は聞きたい事もたくさんあったし、写真も撮りたかったのにすべて忘れていたけど、すごく幸せな気持ちになりました。
外仕事でガサガサのガチガチだったおじいちゃんの手が私の腕を握った時にそういえばとってもやわらかくなっていたこととか、自分から嬉しそうに話してくれる姿とか、後からいろんなことを思い出してどんどん涙が出てきてしまいました。
絶対にまた会いにいこう。
おじいちゃんのためではなく、完全に私のためだけど、また元気をもらいにいこう。
施設の人に迷惑かけちゃうかな、月に1回くらいならいいかな。
お母さんに教えてあげよう。
祖父に会ったことを母に伝えてみたらまさかの答えが
家では父がいるので、コーヒーを飲みに行こうと母を誘い外へ連れ出しました。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、母に祖父に会ってきたことを伝えました。
祖父の状況、姿、施設の人から聞いたこと。
お母さんも会いたければ会えること。
父には私がなんとか言って連れ出すから心配なく会いに行けること。
私の話を聞いた母は震えながら
そんなことをしてくれてありがとう。
私は誰のためでもなくて、自分が会いたかったから会いに行っただけだけど、おとうさんのことで会えないと思っているんだったらもう心配ないよ、絶対に行かなきゃいけないわけでもないし、自分が行きたいと思えば連れていくよ。
しばらく考え込む母。
ここ数年は鬱っぽくなっていることが多く、布団から出れず寝ている日もあります。
歩くペースもとてもゆっくりで、車の乗り降りは3分ほどかかってしまいます。
手は常に震えており、言葉もうまくでてこない母。
まだお父さんのことがひっかかってるのかな。
あの頃と変わったおじいちゃんに会うのが怖いのかな。
障害があっても、身体が不自由でも、どんな人でもやりたいこと・したいこと、出来るか出来ないかは別として、言う権利・思う権利はあるんだよ。
だから自分の思う気持ちに蓋をしなくても大丈夫。
思ったことを話してくれたらいいよ。
そう言うと母は
自分がおじいちゃんに本当に会いたいかどうかわからない
?!?!?!!!!!!!
そこー?!😂
父に言われて会うことが出来ない時は、会いたいと思っていたけど、いざ会えるとなると本当に会いたいかどうかがわからなくなり考えてしまったようです。
でもさ、そうやって思う選択肢が増えただけでもいいと思うよ。
また時間が経てば会いたいと思うかもしれないし、思わないかもしれない。
でもそれはお父さんに言われたことじゃなく自分の気持ちで決めれることだからね!
これまでずっと父の支配下で生きてきた母。
自分で決めることができない弊害がここまでひどいとは思いませんでした。
すべて父の言いなりで自分の意見はなく、子供のことも見ているようで実際は父に怒られないように怒られないようにとしてきたんだなぁと思いました。
それから話題を変えて母と久しぶりにゆっくり話をしました。
私が、父から女が大学なんて行くな。勉強なんてできなくていい。とテスト週間に勉強している私に対して「いつまで勉強してるんだ、さっさと寝ろ」と言われていたことも母は知りませんでした。
介護の仕事をしたいと言えば、そんなことはいつでもできると反対され、父の機嫌がよくなるであろう地元大企業の工場へ就職を決めたのも母は私が勝手に決めたことだと思っていたようです。
母は、そんなことがあったんだね。と言うだけでした。
私自身も父の支配下で暮らし、知らず知らずのうちに自分のやりたいことよりも父に怒られないこと、喜ぶことを選ぶようになっていました。
今となってはそんなことは誰のためでもなく、自分のやりたいことを自分で決めることができる【自己決定】は、生きていくうえでとても大切なことで、それを奪う権利は誰にもありません。
そして両親のためと思って自分の意見などなく過ごしてきた私は、自分が幸せだと思ったことはありませんでした。
けれど、産まれた時からそうやって生きていたので不幸だとも思っていませんでした。
人はいつからだってかわることが出来るはず!
今は3人の子供にも恵まれ、私のやりたいこともすべて受け入れてくれる旦那さんに出会い、とても幸せを感じることが出来ています。
お金もなく、毎日忙しい日々ですが、なにげない日常を当たり前に送れることにとても感謝できています。
自分の子供の成長と、私自身が育ってきた環境。時代が違うとはいえ、こんなに子供らしく、親にいろんなことを話してくれたり、感情を思いっきり家で出してくれえることがとても嬉しく、同時に、幼かった頃の自分が我が子たちに嫉妬しているような気持ちになるときもあります。
私はこんな子供時代を送ることができず、親の顔色を常に伺い、勉強も自分のこともきちんとやっていたのに、大学はいけないし褒められることもなかった。
なのになんでこの子達は自分のこともきちんとやらないんだろう。なんでこれが当たり前だと思っているんだろう。
なんで私はあんなに子供らしくいられなかったんだろう。
そんな風に過去の自分が嫉妬します。
ですが、これでいいんだろうな。自分のようにはなってほしくないと思っていたのだから、我が子たちが当たり前に子供らしく生活して、この当たり前に感謝できるようになるのはもっとずっと大人になってからで、それが普通なんだろうし、私はそれを望んでいました。
誰でもいつか、人は1人では生きていけないこと。たくさんの人に支えられていること。当たり前のことに感謝できるようになると思います。
人に認められ、自分を肯定できるようになって感じた幸せ感。
過去を否定したり目を背けるのではなく、そんな自分の過去も受け止めこれからの人生を楽しく生きていきたいと思います!
母が父の顔色を伺わずに自分の意見を言える日がくるように。
父がいつかは人を肯定できるように。
人を変えることはできないけれど、私自身がこんなに変わることができて、幸せを感じることができるようになった姿を見せることで少しでも変わっていってくれる日がくることを願っています。
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